カントリーダンス(ラインダンス)の歴史

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  Dancing Feet - ラインダンスの思い出


                            2002年6月 村口光子



 これは兵庫県川西市で現在(2002.6)カントリーダンスを教えている村口光子さんの、日本人としては非常に古いカントリーダンスの経験手記です。
 鈴木がお願いしてまとめていただきました。




(右の写真は、1988年カリフォルニア州ヘイワード(サンフランシスコ湾岸)のウェスタン・ショップの前で)


 1987年10月からハワイオアフ島に滞在することになったとき、フラダンスは必ず習って帰る、と決めていました。ところが優雅なワイキキの情景しか知らなかった私は、全く想像もしなかった体験をいくつか、してまいりました。

 その中の一つが、カントリーラインダンス。フラダンスは多くのレッスン場があり、いつでも時間が空けば習う事が出来ました。フラダンスのサーティフィケーションを与えられた日、アメリカ本土から休暇でハワイに来ていたカップルに出会い、「カントリーダンスもするの? 今晩行くけど行かない?」と誘われて、初めてカントリー・ラインダンスに出会いました。


 パールシティという住宅街にあるダンスフロア−を持ったカントリーバーといった感じのPECOS(今は残念ながら閉店してしまっているようです)。落ち着いた感じの女性客が多く、聞けば、パールハーバーに駐屯している海軍将校の奥様方。亭主族はオフィサーズクラブで飲んでいるので面白くないから、ダンスをしにきているとか。 カントリーダンスってフォークダンスかスクエアダンスのことだったのか。とちょっとがっかりしていました。というのは、両ダンスとも、高校生の時、アメリカ人の教師に習いましたが、ダンス部のメンバーでバレーダンスらしきものを踊っていた私には当時、少し、ものたりなかったのです。


 9時からのライヴが始まるやいなや、一列にきれいに並んだので、私も同行したカップルと一緒に並びました。 皆がしているようにポケットに指をかけました。横の人との間は1メートルもなかったと思います。それから私は、右え左え、「こんにちは」ばかり。次の曲では、ブーツをスラップしだして動き回ること。出来ても出来なくても最後までついていきました。 列は乱れずきれいに並んでいましたから、日本人の私は、大きくステップ幅を取らなきゃならないので、この2曲で、くたくた。これが、[Tush Push], [Slapping Leather]―ちなみに当時はオリジナルシートどおりの40 count―カントリーラインダンスとの出会いでした。どうしてこんなものが、間違いなく踊れるのか不思議でしたが,毎晩7時からレッスンがあり、そのあと残って踊っていたのだそうです。


 同行のアメリカ人夫妻がカップルダンスをはじめました。 「Two Step出来る?」と云われて、「トライする」と踊りだしたら、何てことない、第二次大戦後進駐軍(当時はそう言っていましたので)によってもたらされて、大学の体育部費調達のため、毎週、土曜日の午後ダンスホールで開かれていた学生のダンスパーティで踊られていたものと同じ。ただ、カントリーダンスでは、クイック、クイック、スロー、スローと始まるのが、学生のダンスでは、スロー、スロー、クイック、クイックだっただけ。というものの、後にアメリカで購入したカントリーダンスのレッスンビデオには、スロー、スロー、クイック、クイックと教えているものもあるのです。これがアメリカらしいところ。


 「Three step出来る?」「OK」 大学生社交ダンスコンペでいつも優勝を決めていた兄に中学生の頃から、振り回されて覚えたダンスには自信がありましたから、なんとかなると踊りだしたら「ポルカかスケーターワルツ」って感じでした。ポルカだったのでしょうね。「スイングは?」「OK」これはジルバでした。ウエスターンブーツでスイングする? 6 countで踊る人、4 countで踊る若いカップル、何か変でしたが、面白くなってきました。

    (鈴木注:ポルカはカントリーダンスのカップルダンスの一種で今でも踊られています。とくにテキサス
          では人気があるのではないでしょうか?
          「これはジルバでした」とありますが、ひょっとしたら West Coast Swing では?)

 インストラクターは、ボールルームダンスのインストラクターをしていた方。上半身を動かさず、流れるように足を運ぶ。とてもきれいでしたので、習うことにしました。1回1ドル(220円位)でした。全員ウエスターンブーツを履いていましたが、インストラクターも生徒さんもスカートでした。インストラクターは自分の足が生徒に良く見えるように、スカートを膝上までたくし上げていたのが印象に残っており、自分が日本で教えることになった時、やはり同じ事をしてしまいました。当時ジーンズを履いていたのは若い女の子と私ぐらいでした。ステップシートは無く、日本に帰る前の日まで通いましたが、「日本には、このダンスがないから、きっと忘れるだろうな」と云ったのを聞いたインストラクターがメモをくれました。初めて見たステップシート。R, L, F, etc.. アルファベットの大文字、小文字入り混じって、横書き、ペンで殴り書きしたようなものでした。ジャズバンドのメモ帖ぐらい縦15cm横20cmぐらいだったと思います。 さっぱり理解出来ず、捨ててしまったのが今になっては悔やまれます。

    (鈴木注: インストラクタのメモは本当に残念でしたね。足形は書いてはなかったでしょうが、これまた
           最近(2000年)見つかったという古い Tush Push のステップシートに似たようなものだっ
           たのではないでしょうか?)


 1988年5月に帰国後、夫とカントリーミュージック・ライヴハウスに行くと、踊りたくてうずうずし出し、後ろの方で、一人で踊りだしていました。 「かっこ悪いからやめろ!みんな見てるじゃないか」と、止められて。我が家で、一人で踊っている毎日でした。

 帰国後も手紙を交換していたアメリカ人夫妻にそのことを書きましたら、「かわいそうだ。家へ来ませんか?」と招待を受け、主人も何故だか「行ってこい」と。結婚するときダンスの好きな私を口説くのに、「ダンスも習うから、踊れたほうが良いだろう?」といった言葉が守れていなかったこともあったのかな?


 1988年9月からサンフランシスコ、ベイエリアの住宅街にホームステイしながら、West Forty Hayward(閉店)で、ラインを少し、殆どカップルダンスでした。ラインは殆ど40 Countでした。今、日本であまり踊られていない Walkin' Wazi がよく踊られていました。ここでも、ボールルームダンスのインストラクターが教えていました。一回2ドルでした。とても優雅なダンスでした。女性はファッショナブルなスカートで、ロングに近いものも。アメリカで有名なインストラクターだったそうで、この方達の名前が付けられたラインダンスもありました。そのことを、私のホストファミリーは自慢していましたが。高級住宅街を控えており、上品なファッションの中では、ジ
ーンズの私は、すこし恥ずかしかったような時もありました。
騒ぎ立てる人もいない。皆さん本当にダンスに興じてらした様子。笑顔で踊ってらっしゃったので、私も、それを見習うことに。

    (鈴木注: Walkin' Wazi は”アメリカの古典的ダンス”の中では Tush Push, Slapping Leather などと並んで、
          ポピュラーなダンスなのですが、日本で踊る人は少ないですね)


 ここで耳にしたことは、「若い人のニーズに応えて、カントリーミュージックがロック調になってきた。それをどう踊るか、となった時、いままでボールルームダンスを教えていた人達が振り付けだしたのが、このラインダンス」。
 コンペでは、カップルダンスのみで、ペアルックのカップルがまるで氷の上でフィギュアスケートをしているかのように、「舞っていた」と言う表現が良いかと思います。

 若い人は殆ど見かけませんでしたが、一度だけ、20代位の二人ずれが来ました。スニーカーを履いていたので、脱ぐようにと注意を受けましたが、そのまま踊って、やはり男性が床に転がり、逃げ帰るということもありました。当時ダンスフロアでのスニーカー(アメリカではテニスシューズ)は厳禁でした。

 レッスンは、ラインもカップルも一列ずつ、人数が多いと、2組、3組にわけて、インストラクターの足が見えないなんてことの無いように配慮されていました。また9時からのライヴが始まっても、われ先にと言う人は無く、一曲踊ると、次の人にフロア−を空ける、といったマナーは、きちんと守られておりました。アメリカは何処でもそうだったと記憶しております。


 サンホゼのサドルラック Saddle Rack に行った時、入るやいなや私は、"帰りましょう!“と言ってしまいました。カントリーダンスはなく、ただ、歓声が聞こえるだけ。散髪屋の椅子のようなのに座ってテキーラとラム(でしたかしら?)をノドに流しレモンをかじる。ロデオマシンを見たのもここが始めて。 「アメリカの若い人たちはCrazyでしょう」とホストファミリーが。ステージとダンスフロアが3箇所、2箇所しか使っていなかったので、せっかく来たのだからと、踊って帰ることに。 空いているバンドの入らないフロアへ行って、また驚くことが。80代90代と思える人たちが、Swing、Two Stepを軽やかに踊っていました。さすが若年社会。若者も真似をして、踊り出しました。真似組みは、ダンスとは程遠いものでしたが、老若男女入り混じって、自由を満喫している姿は好感が持てました。日本にも、年令の差を感じないでいられる場所があるかな!と。

    (鈴木注: 実は村口さんはこのサンホゼ(サンノゼと言う人もいます)の店を”ロデオ”と覚えていたの
           ですが、私が行ったことのある”サドル・ラック”と非常に雰囲気が似ているので、無理に
           変えさせちゃいました。よかったのでしょうか?こういう店は名前がよく変わりますから。
           私のサドル・ラック見聞記はこちらをご覧下さい。)


 1990年、インディアナポリスの会員制のボールルームダンスに参加したときも、“さあ、これからカントリーラインダンスをしましょう”とアナウンスがあって、Electric Slide を女性だけで踊りましたが、Countは20。若いカップルだけが、18 Countで、しばらく戸惑っていました。私自身は20 Countを好みます。男性達は「ラインダンスは嫌いだ。男性と女性を引き離すから」と。

     (鈴木注: このエレクトリック・スライドの異なるバージョンの話しも面白いですね。日本ではほとんど
            18カウントですが)

 そのホールの隣に、カントリーミュージックのクラブがありました。ちょっと覗きに行きましたが、若い人達ばかりで、カントリーミュージックでディスコダンスを踊っていました。決して良い雰囲気ではありませんでした。私が、一人でラインダンスを踊りだすと、不思議そうに見ていましたが(内心ちょっと怖かったのですが)ついに真似をしだしました。真面目な顔をして、小さな私に大きなラインがくっついて。2曲ほど踊ったと思います。


 その年、ケンタッキーのホストファミリーにつれられて行った、日本の老人会にあたる、シニアシティズンの集まりでのこと。このホストファミリーもご夫婦で音楽の教授、奥様はカントリー大嫌い人間。すぐそこにNashville があると言うのに、全く、カントリーミュージックを聞かせてくれない、テレビも駄目。「ミコは教養のある人間なのにどうして、カントリーミュ−ジックが良いの?」と。

     (鈴木注: これは事実です。アメリカでは今でもこのように言う人は大勢います。特にサンフランシス
            コやニューヨークなどの大都会(テキサス州は別ですが)では、カントリー・ミュージック
            好きは異端児に近いです。)

 女性にやさしいアメリカ男性のはからい、御主人がエレクトーンでミュージカルスの曲を数曲弾いた時、「ミコ」と言ってウインク、カントリーミュージックに切り替えて「踊れ」のサイン。私はシニアにはちょっと間がある年齢だったので、退屈だったのもあって、旅の恥はかき捨てとばかり、踊りだしました。 40 Countという覚えたてのステップでした。「ステージで踊ってほしい」とヤジが飛んだので、一人のラインダンスを笑顔を保ちながら、踊りました。
 スタンディングオーベイションってとこでした。全員が列を作って握手をしに来るのには、驚きました。 「どこの国のダンス?」「カリフォルニアで習いました。」こんな会話でわいわい。ホストファミリー鼻だかってとこでした。


 帰国のために(1990年)、Nashvilleへ。2,3日ホテルに泊まってカントリーミュージックの世界へ。私の泊まるホテルは空港の近く、カントリーミュージックのカラオケバーがありましたが、ダンスにはオープリーランドホテルの中のクラブまで行きました。ホテルのリムジンで送迎をしてくれましたので、一人で飛び込みました。 二組がカップルダンスをしていました。あとは、おしゃべり組の人達。また旅の恥はかき捨て。日本では踊れないのだから。えいっとばかりに始めてしまいました。 踊るのを止めて見物にまわった人たちに囲まれ、「止めときゃ良かった」と後悔すること。「日本人がなにやっているのだ?」と。 顔から火が出るって感じになっても、見物されていては、止められないし、頭の中をいろんなことが渦巻いてくる。 えー? 驚いた!おしゃべり組みも踊りだした、と言うより、食いついて来たって感じ。新しいことには、ひどく興味を示すアメリカ人だから、受け入れられたのでしょう。またまた、楽しい友達ができました。


 それにしても、不思議だったのは、ケンタッキーやテネシー、インディアナのような内陸では、ラインダンスがあまり、知られてなかったこと。東海岸のノースカロライナ、サウスカロライナでは、踊られていたようですが。

 毎年、アメリカに2,3度は飛びましたが、1993年にケンタッキー州レキシントンで初めて、公民館のようなところで、レッスンが始まっているのを知りました。30分に2曲ステップをあげ、30分は、自主練習、また30分レクチャーで、30分自主練習といた具合、2時間で4ドルになっていました。3年後位に、そのときアメリカで練習していたステップが、日本でも踊られていることを知りました。
 このあたりから、スニーカーで踊る若者が増え、フロア−すれすれに体を折り曲げるスタイルも、時々見かけるようになりました。勿論、レクチャーではそのようなことはなく、上半身を揺らさないように指導していたようです。
 この頃、レッスンビデオテープをあちこちで見かけました。何本か買ってみみましたが、同じダンスステップでもスタートやカウント数がまちまちになって来ていました。


 その後のことは、皆様もよくご存知だと思います。広い北アメリカ、訪問された土地によって、違った意見をお持ちの方もいらっしゃるかと思いますが、私が初めて接したカントリーラインダンスの様子を書きとめました。イギリスやオーストラリアに渡ったラインダンスは初期のアメリカのダンスフォームもありますが、Acky Braky Heart、Romeoのように曲に振り付けらるものが多くなり、ステップもますます複雑に、カウント数も多くなってきていますが、見ていても楽しめるダンスになってきているのではないでしょうか。


(鈴木)

 村口光子さんは、「私は台北生まれ、生まれたときから、台北と京都を(当時は船)数回往復しており、冒険好きな男の子のように育ってしまったようです。」と言っておられますが、小さい頃から”国際派”だったようで、音楽とダンスに縁が深かったこともあって、アメリカには何度も行かれ、

  「Nashvilleにはもう15回も行ってしまって、名誉市民賞もいただきましたし、そのほか、Bowling Green、KY名誉市民賞、名誉Kentucky Colonel を)。この辺で、Nashville 打ち切りとばかり、今年は行きませんでしたが、アメリカでは、パワーをもらえると思います。自由があります。」と言っておられます。

 現在、川西市の依頼でカントリーダンスを教えておられます。その辺のことについてはこちらをご覧下さい。


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This page was originallu installed Jun. 27, 2002.